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長崎貿易【ながさきぼうえき】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

長崎貿易
ながさきぼうえき
江戸時代,長崎で行われた貿易江戸幕府は長崎を天領として奉行をおき,貿易を監督した。初期には前代以来の朱印船貿易が中心で,長崎商人末次平蔵荒木宗太郎らが活躍した。その後幕府鎖国政策によって,通商の相手はオランダと中国に限られ,またオランダ人は長崎出島,中国人は唐人町にのみ居留を許され,きびしい制限のもとで貿易が行われた。貿易の方法には,(1) 白糸割符法 (→糸割符 ) ,(2) 相対 (あいたい) 貿易法,(3) 市法売買法,(4) 定高貿易法,(5) 安政5 (1858) 年日蘭和親通商条約と貿易章程の調印後 (開国後) の貿易法などの変遷があった。要するに特定の商人団体に貿易を独占させて,最大の輸入品である生糸下値押え,また,金,の流出を防ぐことが主眼とされた。輸入品は生糸のほか絹織物,砂糖,薬種,雑貨など,輸出品は金,銀,銅,俵物など。

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デジタル大辞泉

ながさき‐ぼうえき【長崎貿易】
江戸幕府の鎖国後、長崎を通じて行われた対外貿易。相手国は中国・オランダの2国に限られた。主な輸入品は生糸・薬品・書籍、輸出品は銀・銅・海産物。輸入品は長崎会所一括購入され、入札により国内商人に売却された。

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世界大百科事典 第2版

ながさきぼうえき【長崎貿易】
長崎港の対外取引において代表的な明治以前の貿易をいい,(1)ポルトガル船に対する1571年(元亀2)の開港から鎖国までのいわゆる南蛮貿易時代,(2)1633年(寛永10)に最初の鎖国令が出てから幕末開港までの対外貿易独占時代,(3)1859年(安政6)3港開港後のいわゆる自由主義貿易時代,に区分される。(1)南蛮貿易期 開港後まもなく,一時イエズス会領になったので(1580),それまで九州各地に渡来したマカオからのポルトガル船や,マニラ発のスペイン船は長崎に集中するようになり,江戸時代に入ると唐船(江戸時代には明,ついで清朝船だけでなく,東南アジア各地からのジャンクもそうよばれた)の入港も急増し,さらに朱印船の中心的な発着港として栄えた。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

長崎貿易
ながさきぼうえき

近世、長崎を通じて行われた対外貿易。1570年(元亀1)ポルトガル船が初めて長崎に来航し、翌年から定期的に入港すると、長崎には大村、島原、平戸など周辺各地の商人が来住して町が発展し、畿内(きない)、江戸などの商人も集まり、ポルトガル貿易の中心地としての地位を確立した。1604年(慶長9)長崎来航のポルトガル船に対して行われた糸割符(いとわっぷ)は、この後の貿易統制の端緒となった。長崎商人のなかには、末次平蔵(すえつぐへいぞう)(代官)、荒木宗太郎(そうたろう)など、自ら朱印船貿易を営む大商人があり、また小口の資本をポルトガル船に投じた人も多く、その返済をめぐって、たびたびポルトガル人と紛争があった。1635年(寛永12)日本人の海外渡航がいっさい禁止されると、この投資はますます盛んになり、末次平蔵を中心として、39年ポルトガル船の来航が禁止されるまで続いた。このころ中国船の長崎来航は年間30~97隻に上り、1641年幕府はオランダ商館の出島(でじま)移転を命じたので、長崎はこの後幕末に至るまで、外国貿易を許される唯一の港となった。

 鎖国体制の完成直後、オランダ貿易、中国貿易はともに取引高では最盛期を迎えたが、長くは続かなかった。平戸時代オランダ人は20万斤近くの生糸を輸入していたが、生糸が完全に糸割符商人の支配下に置かれると、5、6万斤しか輸入せず、パンカドpancado(一括購入による価格決定)が行われないインド、ベトナム産の生糸がこれにかわった。また生糸の価格は毎年秋に決定され、1年間据え置かれたため、中国人は秋にわずかな生糸をもたらして価格を引き上げ、その後多量に舶載した。この弊害を除くため、1655年(明暦1)糸割符は廃止され、相対(あいたい)貿易とよばれる自由貿易が行われた。しかし輸入品の価格は高騰し、銀が大量に流出したので、幕府は1664年(寛文4)に、これまでオランダ人に禁止していた金の輸出を許可し、金の輸出はやがて輸出品の半分に達した。

 幕府は輸入品の価格を引き下げてこれらの貴金属の流出を防ぐため、1672年市法(しほう)売買とよばれる貿易統制を行った。これは、オランダ人、中国人のもたらした品物を、五か所(長崎、京、堺(さかい)、大坂、江戸)商人の目利(めきき)(鑑定人)が評価し、これに基づいて長崎奉行所(ぶぎょうしょ)が決定した価格を通知したうえ取引を行うもので、先に生糸に行われたパンカドをすべての商品に適用するものであった。また利益は市法増銀(ましぎん)として長崎の諸役人の給料にあてられ、長崎の町にも配分されたので、この制度は長崎の町に多くの利益をもたらした。オランダ人は輸入品の価格が下がり、利益が減少したため、輸入量を減らすことにより価格の引き上げを図ったが、これはかえって中国船の輸入額を増やすだけで効果がなかった。

 1685年(貞享2)市法売買は廃止され、生糸には糸割符が復活され、その他の商品は相対売買とし、貿易総額の枠が定められた。これは定高(さだめだか)貿易とよばれ、オランダ船には年額3000貫、中国船には6000貫が割り当てられた。1698年(元禄11)長崎会所が設けられ、貿易を統轄し、幕府に運上金を納めることになった。この間、金銀の輸出については規制がしだいに強められ、また貨幣改鋳によりその質が下落したため、これを補うため、オランダ人、中国人の銅輸出がしだいに増加した。とくに、1696年銅の代物替(しろものがえ)の制度が始まり、金銀にかわる貿易決済手段として銅が公式に認められると、銅の輸出額は急激に増加し、年間800万~900万斤に達した。当初銅の集荷は、江戸の商人伏見(ふしみ)屋四郎兵衛、桔梗屋又八(ききょうやまたはち)などに、運上金上納を条件に請け負わせたが、大坂の銅吹屋(鋳造人)の協力が得られないため行き詰まり、1701年大坂に銅座が設置されて、輸出銅の集荷にあたった。また中国向けの輸出として、銀2000貫目の俵物(たわらもの)(干鮑(ほしあわび)、煎海鼠(いりこ)、鱶鰭(ふかのひれ))、諸色(しょしき)(昆布(こんぶ)、鯣(するめ)、鶏冠草(とさか)など)の代物替が認められ、長崎問屋がその集荷にあたった。

 しかし、銅の需要の急激な増加は、各地の銅山をたちまち枯渇させ、また輸入品の価格を引き下げるため、長崎輸出銅の価格は市価より非常に安く据え置かれたので、銅の集荷はつねに困難を極めた。俵物も、問屋にかわって俵物役所による直仕入れ制となったが、価格が不当に安いため、漁民の生産意欲を減退させ、輸出品の確保がむずかしかった。輸出品の不足のため、オランダ船、中国船の取引は進まず、期限を過ぎても船が出帆できず、貨物を積み戻すこともあり、他方輸入品の価格は騰貴し、抜荷(ぬけに)(密貿易)も頻発した。1715年(正徳5)「正徳(しょうとく)新例」(海舶互市新例)が発布され、金銀の流出を防止し、銅の取引額を実情にあわせて制限し、中国船は出帆地別に船数と取引高を規制した。

 この後も貿易額の制限はたびたび行われたが、生糸、絹織物、薬種、砂糖などの奢侈(しゃし)品を輸入し、貴金属が流出するという貿易の構造は江戸時代を通じて変わらず、新井白石(あらいはくせき)らの貿易無用論がおこった。

[永積洋子]

『矢野仁一著『長崎市史 通航貿易編東洋諸国部』(1938・長崎市)』『箭内健次著『長崎』(1959・至文堂)』『山脇悌二郎著『長崎の唐人貿易』(1959・吉川弘文館)』

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