●阿倍比羅夫【あべのひらふ】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
阿倍比羅夫
あべのひらふ
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デジタル大辞泉
あべ‐の‐ひらぶ【阿倍比羅夫】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
阿倍比羅夫 あべの-ひらふ
阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)の父。斉明天皇4年(658)ごろ越(こし)国守として,齶田(あぎた)(秋田),渟代(ぬしろ)(能代)の蝦夷(えみし),さらに粛慎(みしはせ)を討つ。のち阿曇(あずみの)比羅夫とともに百済(くだら)(朝鮮)救援にむかい新羅(しらぎ)を討ったが,白村江(はくそんこう)で唐(とう)(中国)とたたかい敗れる。のち筑紫大宰帥(つくしだざいのそち)となり,大錦上にすすんだ。本姓は引田(ひけた)。
出典:講談社
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世界大百科事典 第2版
あべのひらふ【阿倍比羅夫】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
阿倍比羅夫
あべのひらふ
生没年不詳。斉明(さいめい)天皇時代の将軍。阿倍引田臣(ひけたのおみ)という阿倍氏支族の出身。658年(斉明天皇4)船師180艘(そう)を率いて蝦夷(えみし)を討ち、齶田(あぎた)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)2郡の蝦夷を従わせ、渟代、津軽2郡の郡領を定め、渡嶋(わたりのしま)(いまの北海道)蝦夷を饗(あえ)した。当時彼は越(こし)国守であったが、同年、翌年二度粛慎(みしはせ)国を討ち、後方羊蹄(しりべし)を政所(まつりどころ)とした。660年三度目の粛慎征伐を行い、夷(えびす)50余人を献じた。662年(天智天皇1)に将軍として百済(くだら)救援に赴き、翌春2万7000人の兵を率い唐軍と白村江(はくすきのえ)に戦い、敗れた。
[横田健一]
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精選版 日本国語大辞典
あべ‐の‐ひらふ【阿倍比羅夫】
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旺文社日本史事典 三訂版
阿倍比羅夫
あべのひらふ
蝦夷 (えみし) 征討に活躍した武将
658年斉明天皇のとき,日本海沿岸を北進し,津軽方面の蝦夷を討ち,さらに北海道の粛慎 (みしはせ) を征討した。のち白村江 (はくそんこう) の戦いで唐・新羅 (しらぎ) 連合軍に敗れた。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
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