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阿倍比羅夫【あべのひらふ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

阿倍比羅夫
あべのひらふ
古代水軍の将。阿倍引田臣,阿倍枚吹とも書く。大化改新後の朝廷の北方進出,蝦夷平定に大きな役割を果した。崇峻2 (589) 年,北陸道に派遣され越などの諸国を巡察。斉明4 (658) 年水軍 180隻を率いて蝦夷を討ち,飽田 (あぎた) ,渟代 (ぬしろ) 2郡を下す。帰順の誓約をした飽田蝦夷恩荷 (おが) に小乙上を授け,渟代,津軽2郡の郡領を設置し,渡嶋 (おしま) の蝦夷を集めて大饗し撫柔。さらに粛慎 (みしはせ) を討ち,生きたクマ2頭,ヒグマの皮 70枚を献じた。このとき比羅夫は「越国守」であった。この地方の豪族であったかと推測される。翌5年再び水軍 180隻を率いて蝦夷を討つ。飽田 (あぎた) ,渟代,津軽3郡ならびに胆振さえ (いぶりさえ) などの蝦夷 400人あまりを集め,大饗して禄を与えた。後方羊蹄 (しりべし) を政所として,郡領をおき帰還。この功により位2階昇進する。同6年3度水軍 200隻を率いて粛慎を討つ。陸奥,渡嶋の蝦夷を使い,妙策を用いて戦い,えびす五十余人を献じた。天智天皇即位の前年 (661) 大華下位,後将軍となり,前将軍阿曇比邏夫 (あずみのひらふ) らとともに百済を救援。天智2 (663) 年前将軍上毛野君稚子 (かみつけのきみわかこ) らとともに,後将軍として兵2万 7000を率いて新羅を討ち,白村江 (はくすきのえ) において敗戦。斉明天皇の時代に大錦上,筑紫大宰帥の地位にあった。子に大納言宿奈麻呂がある。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
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デジタル大辞泉

あべ‐の‐ひらぶ【阿倍比羅夫】
古代の武将。7世紀中ごろ、斉明天皇の時日本海沿岸の蝦夷(えぞ)を討ち、天智天皇の時百済(くだら)救援のため新羅(しらぎ)と戦ったが、白村江(はくすきのえ)の戦いで敗れた。生没年未詳。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus

阿倍比羅夫 あべの-ひらふ
?-? 飛鳥(あすか)時代の武人。
阿倍宿奈麻呂(すくなまろ)の父。斉明天皇4年(658)ごろ越(こし)国守として,齶田(あぎた)(秋田),渟代(ぬしろ)(能代)の蝦夷(えみし),さらに粛慎(みしはせ)を討つ。のち阿曇(あずみの)比羅夫とともに百済(くだら)(朝鮮)救援にむかい新羅(しらぎ)を討ったが,白村江(はくそんこう)で唐(とう)(中国)とたたかい敗れる。のち筑紫大宰帥(つくしだざいのそち)となり,大錦上にすすんだ。本姓は引田(ひけた)。

出典:講談社
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

あべのひらふ【阿倍比羅夫】
7世紀中期の武将。生没年不詳。とくに水軍をひきいる。引田系の阿倍氏。大化改新後の本格的蝦夷経営先頭になる。658年(斉明4)船師180艘をひきいて,日本海沿岸を遠征,齶田(あいた)(飽田(あきた)),渟代(ぬしろ),津軽方面の蝦夷を討ち,郡領などを定めたとある。しかしこのことを伝える《日本書紀》にはこれを粛慎(みしはせ)を討つとする記述も見られ,史料に2種類あり,さらに同種の記事が659,660年にもあることから,これが正確に歴史的事実を記録したかも問題になっている。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

阿倍比羅夫
あべのひらふ

生没年不詳。斉明(さいめい)天皇時代の将軍。阿倍引田臣(ひけたのおみ)という阿倍氏支族の出身。658年(斉明天皇4)船師180艘(そう)を率いて蝦夷(えみし)を討ち、齶田(あぎた)(秋田)、渟代(ぬしろ)(能代)2郡の蝦夷を従わせ、渟代、津軽2郡の郡領を定め、渡嶋(わたりのしま)(いまの北海道)蝦夷を饗(あえ)した。当時彼は越(こし)国守であったが、同年、翌年二度粛慎(みしはせ)国を討ち、後方羊蹄(しりべし)を政所(まつりどころ)とした。660年三度目の粛慎征伐を行い、夷(えびす)50余人を献じた。662年(天智天皇1)に将軍として百済(くだら)救援に赴き、翌春2万7000人の兵を率い唐軍と白村江(はくすきのえ)に戦い、敗れた。

[横田健一]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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精選版 日本国語大辞典

あべ‐の‐ひらふ【阿倍比羅夫】
飛鳥時代の武将。斉明天皇の時、たびたび日本海岸の蝦夷(えぞ)、粛慎の討伐におもむく。天智天皇二年(六六三)、百済(くだら)増援のため出向いたが、白村江(はくすきのえ)で新羅(しらぎ)と唐の連合軍に敗れた。阿倍引田(ひけた)比羅夫。生没年未詳。

出典:精選版 日本国語大辞典
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旺文社日本史事典 三訂版

阿倍比羅夫
あべのひらふ
生没年不詳
蝦夷 (えみし) 征討に活躍した武将
658年斉明天皇のとき,日本海沿岸を北進し,津軽方面の蝦夷を討ち,さらに北海道の粛慎 (みしはせ) を征討した。のち白村江 (はくそんこう) の戦いで唐・新羅 (しらぎ) 連合軍に敗れた。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
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