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隠元【インゲン】

デジタル大辞泉

いんげん【隠元】
[1592~1673]江戸前期に明(みん)から渡来した。名は隆琦(りゅうき)。福建省の人。日本の黄檗(おうばく)宗開祖。寛文元年(1661)宇治黄檗山万福寺を開創。書もよくし、黄檗三筆の一。著「黄檗語録」「普照国師広録」など。
インゲンマメ別名

出典:小学館
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世界大百科事典 第2版

いんげん【隠元】
1592‐1673
京都府宇治の黄檗(おうばく)山万福寺開山で,日本黄檗宗の開祖。隠元は号で,諱(いみな)は隆琦(りゆうき)。中国福州(福建省)福清の出身で,俗は林氏,母は龔(きよう)氏である。一度はを志したが捨てて,23歳で寧波の普陀山にのぼり潮音洞で茶の接待役(茶頭(さずう))となって仏道修行し,29歳のとき福州黄檗山の鑑源興寿について剃髪出家した。その後,嘉興の興善寺,峡石山碧雲寺などで学んでいたが,費隠通容禅師が黄檗山に住したので帰山して費隠に参じ,43歳の1634年(寛永11)に費隠の法を嗣ぎ,37年から7年間黄檗山に住して禅風を宣揚した。

出典:株式会社平凡社
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日本大百科全書(ニッポニカ)

隠元
いんげん
(1592―1673)

江戸前期に来朝した中国明(みん)代の禅僧。黄檗(おうばく)宗の祖。法諱(ほうき)は隆琦(りゅうき)。諡号(しごう)は普照(ふしょう)国師など。福建省の生まれ。幼時より行方不明だった父を捜して、21歳のとき旅に出、有名な観音霊場、舟山(しゅうざん)列島の普陀山(ふださん)に至って出家を志した。29歳のとき、福建省黄檗山万福寺(まんぷくじ)(古黄檗)にて剃髪(ていはつ)。勧進(かんじん)の旅をし、また諸寺を訪れ『法華経(ほけきょう)』『楞厳経(りょうごんきょう)』などの講説を聴聞。33歳より臨済(りんざい)宗の密雲円悟(みつうんえんご)(1566―1642)に就いて参禅した。42、43歳のころ密雲下の兄弟子費隠通容(ひいんつうよう)(1593―1661)に印可されて嗣法(しほう)し、1637年(崇禎10)46歳で古黄檗の住持に請(しょう)ぜられた。ここで一切蔵経(いっさいぞうきょう)を閲読、また1555年倭寇(わこう)の変で焼けて以来宿願であった伽藍(がらん)大復興を完成し、さらに隠元自身の語録も出版している。古黄檗を退院して2年後に再住、この間多数の修行僧を指導した。しかし退院中の1644年祖国の明は事実上滅びた。

 1652年(承応1)より長崎・興福寺(こうふくじ)の逸然性融(いつねんしょうゆう)(1601―1668。明僧)らの懇請があり、隠元は3年間の約束でこれに応じ、1654年に一行30名が鄭成功(ていせいこう)の仕立てた船で来日、長崎に着いた。興福寺、福済寺(ふくさいじ)、崇福寺(そうふくじ)の唐三か寺は、幕府の鎖国政策で長崎に集まった華僑(かきょう)の檀那寺(だんなでら)であり、隠元はただちに興福寺、ついで崇福寺に住した。この壮挙は日本の仏教界、とくに禅僧たちに大きな反響をよんだ。龍渓性潜(りゅうけいしょうせん)(1602―1670)らは隠元を京都・妙心寺に迎えようと奔走したが、愚堂東寔(ぐどうとうしょく)(1577―1661)らの反対も強く、結局、摂津(大阪府)普門寺に迎えられた。1658年(万治1)江戸に赴き、将軍徳川家綱(とくがわいえつな)に謁見、翌1659年酒井忠勝(さかいただかつ)らの勧めで永住を決意、幕府から山城(やましろ)(京都府)宇治に寺地を与えられ、1661年(寛文1)一派本山としての黄檗山万福寺(新黄檗)を開創した。3年後に隠退し、寛文(かんぶん)13年4月3日、82歳で示寂。隠元は、念仏と密教的要素を取り込んだ明末の禅風をもたらし、万福寺は、行事、建築、明代の仏師笵道生(はんどうせい)(1637―1670)の仏像など万事が明朝風で、以後の歴住も中国僧が続いた。隠元の書は、幕閣・諸大名などに珍重され、膨大な語録・詩偈集(しげしゅう)は、その精力的な活動を伝えている。

[菅原昭英 2017年1月19日]

江戸時代の書を代表する唐様(からよう)(中国書法から強い影響を受けた書風、および流派)の推進に、先駆的な役割を果たしたのが、隠元ら黄檗の僧たちの書であった。開祖の隠元や、後世に「黄檗の三筆」と並び称された木庵性瑫(もくあんしょうとう)、即非如一(そくひにょいち)の雄渾(ゆうこん)な書は、宗派の広がりとともに全国的に伝えられた。隠元は書を、宋(そう)代の蔡襄(さいじょう)に学んだといわれ、また師の費隠通容の影響もみられる。なにものにもとらわれない、のびのびとした書は、隠元の不断の修禅によって生み出されたものであり、その高徳と相まって、世人に広く親しまれている。

[久保木彰一 2017年1月19日]

『平久保章著『隠元』(1962/新装版・1989・吉川弘文館)』

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367日誕生日大事典

隠元 (いんげん)
生年月日:1592年11月4日
江戸時代前期の来日明僧;日本黄檗宗の開祖
1673年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
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精選版 日本国語大辞典

いんぎん【隠元】
〘名〙 (「いんげん(隠元)」の変化した語) =いんげんまめ(隠元豆)

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いんげん【隠元】
[1] 中国、明の僧。福州の人。諱(いみな)は隆琦(りゅうき)。諡(おくりな)は大光普照国師。真空大師。承応三年(一六五四)来日。山城宇治に黄檗山万福寺を開いた日本黄檗(おうばく)宗の開祖。いわゆる黄檗文化を移入し、江戸時代の文化全般に大きな影響を与えた。語録「普照国師広録」などがある。文祿元~延宝元年(一五九二‐一六七三
[2] 〘名〙
① 「いんげんまめ(隠元豆)」の略。〔俳諧・季引席用集(1818)〕
② (「いんけ(院家)」を誤って隠元と記したものとも、また、寺家で用いた院家何々というものをすべて隠元和尚の伝来としたのによるともいう) 僧。僧侶。
※浮世草子・男色大鑑(1687)三「折から彼山の隠元(ヰンゲン)らしき御法師の」
③ 「いんげんやかん(隠元薬缶)」の略。〔尾張方言(1749)〕

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