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青年チェコ党【せいねんチェコとう】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

青年チェコ党
せいねんチェコとう
Mladočeská strana
オーストリア=ハンガリー帝国時代におけるチェコ人の政党。正式名称は国民自由思想党 Národní strana svobodomyslná。代表的な指導者は K.クラマーシュ (1901以後) 。自由主義的ブルジョアジー,小市民を支持基盤とする。保守的な老人チェコ党対立ボヘミア,モラビア,シレジア (シュレジエン) を統一したオーストリア=ハンガリー=チェコ三重帝国の設立を提唱した。外交路線としては親ロシア主義。 1891年の選挙で大勝したが,農民派および T.マサリクら現実派の脱退後,弱体化した。第1次世界大戦中,独立を支持し,初代独立政府に参加。戦後国民民主党に合流

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世界大百科事典 第2版

せいねんちぇことう【青年チェコ党】

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日本大百科全書(ニッポニカ)

青年チェコ党
せいねんちぇことう
Mladočeskástrana チェコ語
Young Czech Party 英語

チェコスロバキア独立(1918)以前のチェコの民族主義政党。1860年以降、チェコ人は、パラツキーやリーゲルFrantišek Ladislav Rieger(1818―1903)らに指導されるチェコ民族党のもとで、オーストリア帝国の連邦化によるチェコ人の政治的、文化的自治を要求していた。しかし、党指導部の妥協的な姿勢に批判的な急進派(青年チェコ派)は、しだいに党内で力を得て、74年には正式に分離し、チェコ民族自由主義党を結成した。この政党は一般には青年チェコ党とよばれ、95年の選挙で勝利を収め、チェコ語のドイツ語に対する同権、普通選挙制などを要求して、チェコ民族運動の先頭にたった。しかし、1907年にオーストリアで普通選挙制が実現すると、チェコ農民党や社民党の進出に脅かされるに至り、11年の選挙では、チェコ人政党のなかでも第三党に後退した。なお、青年チェコ党が分離したあとのチェコ民族党は、老チェコ党Staročeská strana(チェコ語)/Old Czech Party(英語)とよばれ、ウィーン政府との妥協の道を求めたが、1895年の選挙で大敗し、チェコ民族運動の主導権を失った。1918年にチェコスロバキア共和国が独立する過程で、青年チェコ党は、老チェコ党などを吸収し、新たにチェコスロバキア国民民主党として再編され、大資本の利益を代弁する右派政党となった。

[林 忠行]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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