@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

顕如【けんにょ】

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

顕如
けんにょ
[生]天文12(1543).大坂石山
[没]文禄1(1592).11.24. 京都
安土桃山時代の一向宗の僧。本願寺 11世。同 10世証如の長子。名は光佐。天文 23 (1554) 年,証如の跡を継いで宗主となり,永禄2 (59) 年門跡に列せられ,本願寺に坊官をおき,院家の制を設けた。元亀1 (70) 年西国経略途上の織田信長と衝突し,以後 10年間にわたり,一向一揆を組織して交戦したが,天正8 (80) 年,正親町 (おおぎまち) 天皇仲裁和し,石山を退去し,紀伊鷺森,和泉貝塚へと移り,同 13年大坂に帰った。同 19年豊臣秀吉に京都堀河の地を与えられ,この間大正に任され,本願寺の基礎を確立した。その子教如准如のとき東,西両本願寺が成立した。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル大辞泉

けんにょ【顕如】
[1543~1592]安土桃山時代浄土真宗の僧。本願寺第11世。諱(いみな)は光佐(こうさ)。元亀元年~天正8年(1570~80)の間、織田信長と戦い、正親町(おおぎまち)天皇の仲裁で和議を結び、石山本願寺を退く。のち、豊臣秀吉から京都堀川の地を寄進された。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

顕如 けんにょ
1543-1592 戦国-織豊時代の僧。
天文(てんぶん)12年1月6日生まれ。証如の長男。天文23年浄土真宗本願寺11世,永禄(えいろく)2年本願寺初の門跡(もんぜき)となる。元亀(げんき)元年織田信長と開戦し,天正(てんしょう)8年正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって講和,紀伊(きい)鷺森(さぎのもり)(和歌山県)に退去した。豊臣秀吉から京都堀川の地(現西本願寺の地)を寄進された。天正20年11月24日死去。50歳。大坂出身。名は光佐。

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

けんにょ【顕如】
1543‐92(天文12‐文禄1)
戦国時代の浄土真宗の僧。諱(いみな)は光佐,号は信楽院。本願寺第11世。証如の長男。本願寺は証如時代から権勢を強め,戦国大名の注目を集めたが,顕如誕生の翌年には細川晴元から婚約の申入れがあり,後年その養女六角義賢の猶子として内室に迎えた(如春尼)。1554年(天文23)12歳で法灯を継ぐ。59年(永禄2)には証如時代から望んでいた門跡に列せられ地位の向上をみた。諸大名接近の例としては,北条氏康が上杉景虎との対立から本願寺の援助を望み,相模国内の一向宗禁制を60年ぶりに解除,武田晴信が上杉への牽制のため加賀越中の門徒の上杉領への侵入を顕如に依頼,六角,浅井,朝倉氏らが織田信長への対抗上領内の一向一揆と結んだこと等があげられる。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

日本大百科全書(ニッポニカ)

顕如
けんにょ
(1543―1592)

安土(あづち)桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺第11代宗主。諱(いみな)は光佐(こうさ)。天文(てんぶん)12年正月6日に生まれる。父は証如(しょうにょ)(1516―1554)、母は権中納言(ごんちゅうなごん)庭田重親(にわたしげちか)(1495―1533)の女(むすめ)増進院。九条稙通(くじょうたねみち)(1507―1594)の猶子(ゆうし)となる。1554年(天文23)8月12日、石山本願寺で得度し、翌1555年(弘治1)4月法眼(ほうげん)に叙せられる。15歳で細川晴元(ほそかわはるもと)の女と結婚し、1558年(永禄1)長子教如(きょうにょ)を生む。翌1559年、式料貢献の賞として門跡(もんぜき)に補され、本願寺はここに初めて門跡寺院となる。1570年(元亀1)9月、織田信長と対立して諸国の門徒に挙兵を促し、以来、1580年(天正8)まで信長と戦う(石山戦争)。しかし同年4月9日、勅命によって和睦(わぼく)し石山本願寺を退出、紀州(和歌山県)鷺森(さぎのもり)に移る。合戦時代に顕如が諸方に発給した書状は「顕如上人(しょうにん)文案」に収められ、西本願寺に現存する。信長の死後、1583年7月、本願寺を和泉(いずみ)(大阪府)の貝塚に移したが、豊臣秀吉(とよとみひでよし)から大坂天満(てんま)の地を与えられて同年8月に寺基を同地に移す。1591年3月さらに秀吉から京都西六条の地を寄進され、同年8月顕如・教如父子はこれに移る。現在の西本願寺の地がそれである。天正(てんしょう)20年11月24日50歳で没し、諡(おくりな)を信楽院(しんぎょういん)と称する。

[北西 弘 2017年7月19日]

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

顕如 (けんにょ)
生年月日:1543年1月6日
安土桃山時代の真宗の僧
1592年没

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

けんにょ【顕如】
安土桃山時代の浄土真宗の僧。本願寺第一一世。大僧正。証如の長男。諱(いみな)は光佐。大坂の人。石山本願寺の最盛期にあたり、天下統一をすすめる織田信長と対立して、元亀元年(一五七〇)から一〇年にわたって交戦。天正八年(一五八〇)正親町(おおぎまち)天皇の仲介で和議を結び、紀伊鷺森に移り、天正一三年大坂天満の地に帰った。顕如の没後、長男教如の東本願寺創建によって東西に分派した。天文一二~文祿元年(一五四三‐九二

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

顕如
けんにょ
1543〜92
安土桃山時代の浄土真宗の僧
本願寺11世,名は光佐。一向一揆を組織し,反織田信長の大名と結んで,1570〜80年まで信長と戦い(石山合戦),正親町 (おおぎまち) 天皇の仲裁で和睦。のち石山を去ったが,紀伊・和泉を経て '85年再び大坂に帰り,のち秀吉から京都堀川に寺地を与えられ,そこに本願寺をつくった。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

顕如」の用語解説はコトバンクが提供しています。

顕如の関連情報

関連キーワード

コペルニクス鉄砲伝来戦国時代(日本)鉄炮記古田織部堺と鉄砲みなし仮設住宅池坊専応門倉岬狩野永徳

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation