●顧愷之【こがいし】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
顧愷之
こがいし
Gu Kaizhi
[没]406頃
中国,東晋(→晋)の画家。呉道子とともに中国絵画史の双璧。無錫(江蘇省)の人。字は長康。虎頭将軍となったため顧虎頭とも呼ばれた。多才で才絶,画絶,癡絶(ちぜつ)をもって三絶と称され,逸話も多い。興寧2(364)年,建康(南京)の瓦官寺北殿に維摩像を描いて名声を得た。大司馬の桓温の参軍となって江陵,荊楚を遊歴。晩年は建康に帰り,義煕1(405)年散騎常侍に任ぜられたが,62歳で没した。中国絵画に必須の描線の美しさによる描写を極限にまで高めた最初の人で,後世それは高古遊糸描と呼ばれ,強い影響を与えた。道釈画を最も得意としたが,六朝時代の神仙思想の流行に基づき,神仙山水人物図ともいうべき画も制作。真筆は現存しないが筆跡をうかがえるものとして,宋代の模本といわれる『女史箴図巻』(大英博物館),『洛神賦図巻』(フリーア美術館)などがある。著書に『顧愷之文集』『啓蒙記』があり,『魏晋勝流画賛』『論画』『画雲台山記』の 3編が『歴代名画記』に収められている。(→中国絵画)
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デジタル大辞泉
こ‐がいし【顧愷之】
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世界大百科事典 第2版
こがいし【顧愷之 Gù Kǎi zhī】
中国,六朝東晋の画家。字は長康,幼時の字を虎頭といい,顧虎頭とも呼ばれることがある。江蘇省無錫(むしやく)の生れで,名族呉郡顧氏の傍系の出。父の顧悦之は揚州刺史殷浩に仕えて正義感と勇気に恵まれた功臣であるが,顧愷之はその素質に乏しく,むしろ当意即妙の文辞によって主人の意を迎える才気の面を受けついでいる。その生涯の大半を長江(揚子江)中流地域を中心とする軍閥の首領をパトロンとして転々とした。初め桓温(かんおん)の参軍となり寵愛をうけたが,桓温の死後はどこの配下にも属せず,顧愷之の30~40歳代,20年間については伝記資料をまったく欠いている。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
顧愷之
こがいし
生没年不詳。中国、東晋(とうしん)の画家。字(あざな)は長康。江蘇(こうそ)省無錫(むしゃく)の人。義煕(ぎき)年間(405~418)の初めごろ散騎常侍となったのち、まもなく62歳で没したという。建康(南京(ナンキン))の瓦官寺(がかんじ)の壁面に維摩(ゆいま)図を描いて名声を得た。歴史始まって以来といわれたほどの天才で、ことに肖像画、人物画に秀でていた。彼は「人物画を描くのはとくにむずかしい」といい、問題は形態や、明暗や、筆跡など表面的な技術にあるのではなく、対象となるものの奥に潜む精神をいかに描き出すかにあるとした。『論画』や『画雲台山記』などの画論も伝わっており、その絵画思想をうかがい知ることができる。大英博物館所蔵の『女史箴図(じょししんず)』は顧愷之の作とされるが、唐代の模写とする説が有力である。
[吉村 怜]
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精選版 日本国語大辞典
こ‐がいし【顧愷之】
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