●飫肥藩【おびはん】
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飫肥藩
おびはん
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飫肥藩
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藩名・旧国名がわかる事典
おびはん【飫肥藩】
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世界大百科事典 第2版
おびはん【飫肥藩】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
飫肥藩
おびはん
日向(ひゅうが)国那珂(なか)郡飫肥(宮崎県日南(にちなん)市)に藩庁を置いた外様(とざま)藩。石高5万1000石。藩主伊東氏は工藤祐経(すけつね)の後裔(こうえい)。1587年(天正15)の豊臣(とよとみ)秀吉の九州入りを嚮導(きょうどう)した功により、伊東祐兵(すけたけ)が那珂・宮崎両郡に1736町を給されたのに始まる。5代祐実(すけざね)の代には、寛文(かんぶん)から延宝(えんぽう)期(1661~81)にかけて飫肥城の修築整備、藩随一の実力者家老伊東勘解由(かげゆ)父子の排斥、都城(みやこのじょう)島津領との境界確定、郷士制度の導入などが挙行され、いちおう藩体制の確立をみた。しかし、6代祐永(すけなが)の襲封後、藩財政は悪化し始め、10代祐鐘(すけあつ)は財政立て直しのために、1796年(寛政8)徒士(かち)身分の能吏野中金右衛門(のなかきんえもん)を「杉方役」に登用して植林事業をおこさせ、さらに98年に襲封した11代祐民(すけたみ)は楮(こうぞ)の栽培を奨励し、紙専売制を推進した。これにより、飫肥杉の名は全国に広まり、和紙も他藩のそれとともに日向和紙の名を高くした。また祐民の代には、1801年(享和1)城下に学問所が設けられたのを契機に、藩内に大いに向学の気風がおこり、27年(文政10)には清武(きよたけ)中野に郷校(ごうこう)明教堂(めいきょうどう)も誕生した。ついで13代祐相(すけとも)も1830年(天保1)に新たに藩校振徳堂(しんとくどう)を開き、安井滄洲(そうしゅう)・息軒(そくけん)父子に藩士の子弟の教育にあたらせた。しかし、すでに内憂外患の時を迎えた祐相の代には、海防等のために藩財政はいっそう窮迫化し、やがてその再建の目途もたたないまま、1868年(慶応4)には倒幕藩として戊辰(ぼしん)戦争に参戦、明治を迎えた。1871年(明治4)廃藩、飫肥、都城、宮崎、鹿児島の各県を経て、83年再置の宮崎県に編入された。
[上原兼善]
『喜田貞吉・日高重孝著『日向国史 下巻』(1930・史誌出版社)』▽『日高次吉著『宮崎県の歴史』(1970・山川出版社)』
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