●飯沼慾斎【イイヌマヨクサイ】
デジタル大辞泉
いいぬま‐よくさい〔いひぬま‐〕【飯沼慾斎】
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus
飯沼慾斎 いいぬま-よくさい
天明2年6月10日生まれ。母方の親戚で漢方医の飯沼長顕の養子となる。江馬蘭斎(らんさい),宇田川玄真に蘭方をまなび,美濃(みの)(岐阜県)大垣で開業。50歳で隠居し,植物研究に専念。日本最初のリンネ分類法による植物分類図鑑「草木図説」をあらわした。慶応元年閏(うるう)5月5日死去。84歳。伊勢(いせ)(三重県)出身。本姓は西村。名は長順。字(あざな)は竜夫。
出典:講談社
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世界大百科事典 第2版
いいぬまよくさい【飯沼慾斎】
江戸後期の蘭方医,博物学者。伊勢亀山藩の御用商人西村信左衛門の次男。幼名本平のちに専吾,名は守之,長順,字は竜夫,号は慾斎という。1794年(寛政6)大垣に出て,漢方医飯沼長顕の養子となる。1810年(文化7)江戸の宇田川榛斎の門に入り,蘭方を学び,大垣に帰って,蘭方医として開業した。32年(天保3)大垣近郊の長松村の別荘平林荘に隠居し,博物学の研究に専念した。52年(嘉永5)ごろに日本で最初のC.vonリンネの分類法による植物図鑑《草木図説》草部20巻を完成し,56年(安政3)から62年(文久2)にかけて出版した。
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日本大百科全書(ニッポニカ)
飯沼慾斎
いいぬまよくさい
(1782/1783―1865)
幕末期の植物学者。伊勢(いせ)国亀山西町(三重県亀山市)の藩御用商人西村信左衛門の次男として生まれる。幼名は本平、のちに専吾、名は守之(もりゆき)、長順、号は慾斎、字(あざな)は龍夫である。大垣に出て、漢方医飯沼長顕(1755―1815)の養子となり、28歳のとき江戸に出て、宇田川榛斎(しんさい)、藤井芳亭(ほうてい)に蘭学(らんがく)を学び、大垣に帰り、蘭方医を開業する。1832年(天保3)隠居して、大垣近郊の長松村(大垣市長松町)にある別荘平林荘で、博物学の研究に専念した。1843年三男興斎(1821―1887)を宇田川榕菴(ようあん)の養子に出す。日本で最初のリンネ分類による植物図譜『草木(そうもく)図説』を執筆し、草部20巻、木部10巻を完成させたが、江戸時代におけるヨーロッパ植物学の受容と理解の成果をここにみることができる。草部は1856年(安政3)から1862年(文久2)にかけて出版された。木部は江戸時代には未刊。墓は大垣市安井町の縁覚寺にある。
[矢部一郎]
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367日誕生日大事典
飯沼慾斎 (いいぬまよくさい)
江戸時代後期の蘭方医;植物学者
1865年没
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精選版 日本国語大辞典
いいぬま‐よくさい【飯沼慾斎】
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