●高句麗【こうくり】
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
高句麗
こうくり
Koguryǒ
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朝日新聞掲載「キーワード」
高句麗
(2007-04-03 朝日新聞 朝刊 1外報)
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デジタル大辞泉
こうくり〔カウクリ〕【高句麗/高勾麗】
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こくり【高句麗】
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世界大百科事典 第2版
こうくり【高句麗 Koguryŏ】
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日本大百科全書(ニッポニカ)
高句麗
こうくり
朝鮮古代の国名(前37ころ~668)。高麗、貊、狛などと書き、「こうらい」「こま」ともよぶ。高句麗地方は古くから北方・西方諸文化受容の窓口であった。紀元前7世紀以降、タガール、スキタイ、オルドスなどの諸文化を受容し、特色ある青銅器文化をつくった。前3世紀の衛氏朝鮮の成立、前108年の漢四郡(朝鮮四郡)の設置により、中国鉄器文化が直接この地域に導入された。前37年ごろから鴨緑江(おうりょくこう)の支流佟佳江(とうかこう)(渾江(こんこう))の流域を中心に、小国が連合して高句麗を建国した。
[井上秀雄]
小国統合時代(前37ころ~204)
前37年ごろの高句麗は、玄莵(げんと)郡の主県になるほど文化的、社会的に発展しており、小国統合の国家段階に達していた。後12年に高句麗王騶(すう)(東明王にあてる説もある)は王莽(おうもう)の出兵要求を拒否したため、王莽に殺されたが、これを契機に諸民族が反乱を起こし、王莽の新国は滅亡した。高句麗は49年に長駆中国の山西省太原まで進出し、118年以降では濊貊(わいばく)、馬韓(ばかん)などを糾合して、玄莵郡、遼東(りょうとう)郡、夫余(ふよ)と戦い、東方諸族の盟主的存在になった。132年には西安平県(中国遼寧(りょうねい)省丹東市)を攻撃し、赴任途上の帯方令を殺し、楽浪(らくろう)太守の妻子を捕らえた。1~2世紀の高句麗は強大で、後漢(ごかん)の遼東、玄莵2郡にしばしば進出した。190年ごろ、遼東太守公孫度(こうそんたく)が後漢王朝の混乱に乗じて自立し、高句麗や烏丸(うがん)を服属させた。
[井上秀雄]
五族時代(204~426)
204年に王都が国内城(中国吉林(きつりん)省集安市)に移った。この時代の高句麗は、貴族が旧小国など地方を支配していた。王権が弱く、貴族連合が政権を握っていたが、そのうち有力な5氏族が実権をもっていたので、この時代を五族時代という。中国の三国時代になると、高句麗は遼東の公孫氏に倣って、魏(ぎ)と呉(ご)に両属していたが、魏がこれを嫌い、238年に楽浪、帯方(たいほう)両郡を復興した。244、245両年に高句麗は魏に攻撃され、王都丸都(がんと)城を落とされた。晋(しん)(西晋)の永嘉(えいか)の乱(307~312)に乗じ、311年高句麗は西安平県を奪い、313年に楽浪郡を、翌年帯方郡を滅ぼし、平壌方面に勢力を伸ばした。五胡(ごこ)十六国の戦乱に敗れた中国の知識人が多数高句麗に亡命し、新しい文化をもたらした。339年、342年再度にわたって慕容皝(ぼようこう)の前燕(ぜんえん)が侵略したが、355年、前燕は政策を改めて、故国原王を営州諸軍事征東大将軍営州刺史(しし)楽浪公高句麗王に冊封した。この冊封は、中国王朝が異民族の外臣に内臣の称号を与えた最初である。371年百済(くだら)軍に平壌城を攻められ、故国原王は戦死した。この後を受けた小獣林王は新文物の導入を図り、372年に順道が、374年に阿道(あどう)が前秦(ぜんしん)から仏教を伝え、372年に大学を建て儒教教育を始め、翌年には法令を公布した。国力を充実した高句麗は、広開土王(好太王)、長寿王(ちょうじゅおう)両代の飛躍的な領土拡大期を迎えた。かくして旧小国の勢力を背景にした貴族連合の五族時代から、中央集権化した貴族連合の五部時代へと発展した。
[井上秀雄]
五部時代(427~597)
427年の平壌遷都は高句麗の貴族連合体制を変質させ、地方を基盤とした貴族が宮廷貴族となり、そのなかで強力な貴族が大対盧(だいたいろ)(第一等官職名。貴族会議の議長にあたり、政務の総轄者)になって政権を握った。この時代には王都を5区画に分け、その5部に貴族を分住させたので五部時代という。5世紀の高句麗は、比較的順調に領土を拡大した。475年には百済の王都漢城を攻め落として漢江流域を制圧した。6世紀中葉になると、新羅(しらぎ)が急速に領土を拡大し、漢江流域や日本海岸の高句麗の支配地を奪った。高句麗は初め中国の南北両朝と国交を結んでいたが、480年以後、北魏が南朝との国交を禁じた。高句麗独特の栲栳(こうろう)峰形式の山城や、居城と山城との組合せは、その後朝鮮全土の村落構造にまで取り入れられた。高句麗寺院の伽藍(がらん)配置や、北魏系といわれる高句麗の仏像形式は、百済や日本に影響を与えた。日本では5世紀前半から高句麗の新文物をかなり受容しているが、正式な国交は570年より始まる。この時期の日本との関係は文化交流が中心で、僧侶(そうりょ)の活躍がとくに注目される。
[井上秀雄]
隋・唐との対戦時代(598~668)
581年に隋(ずい)が建国すると、平原王はただちに朝貢したが、一方では隋の侵略に備えた。612年隋が出兵すると、高句麗軍は遼東城(遼寧省遼陽市)の籠城(ろうじょう)戦や乙支文徳(いつしぶんとく)の薩水(さっすい)(清川江)の戦いなどで隋軍を撃退した。その後も高句麗は再三隋軍の侵略を退けた。その後、朝鮮三国の対立がいっそう激化したので、642年に泉蓋蘇文(せんがいそぶん)(淵蓋蘇文(えんがいそぶん))が栄留王たちを殺し、宝臧(蔵)王を擁立して臨戦態勢を整えた。645年以後、高句麗は唐軍の遼東侵略を三度撃退した。661年には新羅・唐連合軍が南方から攻撃し、王都平壌城に迫ったが、これを撃退した。665年に泉蓋蘇文が死去すると、彼の子供たちが対立し、長子男生は翌年唐に降服した。その動揺に乗じて、新羅・唐連合軍は、668年9月王都平壌城を攻略して、宝蔵王を捕らえ、高句麗を滅ぼした。滅亡後も高句麗遺民の復興運動が各地に起こり、698年には大柞栄(だいそえい)が震国(後の渤海(ぼっかい)国)を建国した。高句麗はこの時期にも道教など中国の新文物を受容していた。一方、固有信仰も戦闘の激化に伴い高句麗全土に広まり、民族精神を形成することになった。
[井上秀雄]
『李丙燾著、金思燁訳『韓国古代史』上下(1979・六興出版)』▽『井上秀雄著『古代朝鮮』(NHKブックス)』▽『井上秀雄著『変動期の東アジアと日本』(1983・日本書籍)』▽『金富軾著、井上秀雄訳注『三国史記2』(平凡社・東洋文庫)』
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精選版 日本国語大辞典
こくり【高句麗】
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旺文社世界史事典 三訂版
高句麗
こうくり
古代満州と北朝鮮にまたがっておこった国
この国を建てた高句麗人は,ツングース系の貊族 (はくぞく) の一部といわれ,東満州で狩猟や牧畜を行っていたが,前1世紀末ごろ独立し,都を丸都城に定め,4世紀初めに楽浪郡を占領して,北朝鮮を手に入れた。4世紀末から5世紀初めの広開土王は積極的に領土を広めた。次の長寿王時代は最盛期で,都を大同江畔の平壌(ピョンヤン)に移した。隋は3回にわたって攻撃したが成功せず,唐と新羅 (しんら) の協力によって滅んだ。初期の族長の権力を示す支石墓は,1〜2世紀ごろから墳墓にかわり,そのすぐれた壁画は,日本の高松塚古墳などにも影響を与えた。
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旺文社日本史事典 三訂版
高句麗
こうくり
1世紀末ごろから部族連合国家を形成,以後勢力を伸ばし,313年楽浪 (らくろう) 郡を併合。好太王(広開土王)のとき,百済 (くだら) および日本と交戦。以後2代を含めた4世紀末から6世紀初めにかけて全盛期を迎える。6世紀末の隋の煬帝 (ようだい) の侵略を退けたが,668年唐と新羅 (しらぎ) の連合軍によって滅ぼされた。
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