●高山樗牛【たかやま ちょぎゅう】
美術人名辞典
高山樗牛
出典:(株)思文閣
デジタル大辞泉
たかやま‐ちょぎゅう〔‐チヨギウ〕【高山樗牛】
出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
デジタル版 日本人名大辞典+Plus
高山樗牛 たかやま-ちょぎゅう
明治4年1月10日生まれ。帝国大学在学中に小説「滝口入道」が懸賞入選。卒業後,雑誌「太陽」の主幹となる。はじめ日本主義をとなえたが,ニーチェの影響をうけて美的生活の提唱,さらに日蓮への傾倒へとかわった。明治35年12月24日死去。32歳。羽前(うぜん)(山形県)出身。旧姓は斎藤。本名は林次郎。筆名はほかに高斎林良,林斧太。著作に「美的生活を論ず」など。
【格言など】己れの立てるところを深く掘れ,そこには必ず泉あらん
出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。
世界大百科事典 第2版
たかやまちょぎゅう【高山樗牛】
明治期の美学者,倫理学者,文芸評論家。山形県鶴岡生れ。本名林次郎。旧姓斎藤,幼いとき高山家へ入籍。第二高等中学(後の第二高等学校)を経て1896年東京帝大文科大学哲学科を卒業。94年在学中《読売新聞》の懸賞小説に《平家物語》に材を取った悲恋物語《滝口入道》が入選し注目されたが,樗牛自身は学問の活性化をめざしてエッセイストの道を選んだ。96年第二高等学校教授となったが,翌年辞任して博文館に入社,雑誌《太陽》の主筆として,鋭い批評文を精力的に書いた。
出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
高山樗牛
たかやまちょぎゅう
[没]1902.12.24. 平塚
明治の評論家,思想家。本名は林次郎,別に林斧太,高斎林良と号した。父は斎藤親信。叔父高山久平の養子として育ち,1888年第二高等学校に入学,その頃から文才を示した。 93年東京帝国大学に入学。在学中,日就社の懸賞募集に応募,歴史小説『滝口入道』が当選し『読売新聞』に掲載された。 95年雑誌『帝国文学』創刊とともに上田敏らと編集委員となり,次いで雑誌『太陽』の文芸部主任として評論を執筆。 96年大学を卒業,二高教授となったが,翌年4月辞任,『太陽』を編集しながら東京帝国大学や東京専門学校に出講。日清戦争後,井上哲二郎らとともに日本主義を唱え『日本主義』を『太陽』に掲載。ニーチェの死に際し大いに感化を受けニーチェ主義を主張した。 1902年文学博士となり,晩年は日蓮に傾倒。著作は『わが袖の記』 (1897) ,『文明批評家としての文学者』 (1901) ,『美的生活を論ず』 (01) ,『平家雑感』 (01) ,『平相国』 (02) ,『日蓮上人と日本国』 (02) ,『日蓮と基督』 (02) ,『日蓮上人とは如何なる人ぞ』 (02) など。『樗牛全集』 (7巻) がある。
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
日本大百科全書(ニッポニカ)
高山樗牛
たかやまちょぎゅう
(1871―1902)
明治時代の思想家、評論家。明治4年1月10日、羽前(うぜん)国西田川(にしたがわ)郡高畑町(山形県鶴岡市)に庄内(しょうない)藩士斎藤親信(さいとうちかのぶ)の二男として生まれる。本名は林次郎。2歳のとき父の兄高山久平の養子となる。官吏であった養父の転任に従って、山形、福島と移り、1886年(明治19)に上京、東京英語学校に入学した。彼はその短い生涯において、「浪漫(ろうまん)主義」「日本主義」「個人主義」と思想を三変させた。しかし、その死の直後に桑木厳翼(くわきげんよく)が、樗牛の「煩悶(はんもん)は一貫して一つの問題に触れて居(い)」た、それは「人生問題と云(い)ふものゝ解決であつた」と述べているように、変転する彼の思想遍歴のうちに新しい時代の刻印をはっきりと見て取ることができる。
仙台の第二高等中学校に入学した樗牛は、1891年有志と語らって『文学会雑誌』を創刊し数編の論文を載せた。そこには、人生への懐疑、文学への志向などすでに浪漫主義のモチーフがみられる。1893年帝国大学哲学科に入学した樗牛は、小説『滝口入道』(1894)を発表する一方、上田敏(うえだびん)、姉崎嘲風(あねさきちょうふう)(姉崎正治(まさはる))らと『帝国文学』(1895)の創刊に加わり、近松文学に託して自らの思いを吐露した。それによれば「愛」こそ「人生に対しては幸福の最大なる源」であり、「情死」こそ「幸福なる愛の最後」であった。
1897年雑誌『太陽』の主筆となった樗牛は、やがて「日本主義」を唱え国家至上主義を説くに至る。しかし彼は、あくまでも「人生の目的は幸福にあり」、国家は「幸福を実現する方法」であるとしており、単純な国家主義とは一線を画している。1900年(明治33)、欧州留学を目前にして樗牛は突如、血を吐いて倒れた。以後、彼の思想は国家至上主義から一転して、「美的生活を論ず」(1901)、「日蓮上人(にちれんしょうにん)とは如何(いか)なる人ぞ」(1902)など、いずれも、すべてに優先する個人の価値を高唱したものであった。そしてニーチェの思想を賛美し、強烈な「超人」的な個性に傾倒していった。この「晩年の叫び」が後の世代に大きな影響を与えたのである。
[渡辺和靖 2016年9月16日]
『『滝口入道』(岩波文庫)』▽『渡辺和靖著『明治思想史』(1978/増補版・1985・ぺりかん社)』
出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
精選版 日本国語大辞典
たかやま‐ちょぎゅう【高山樗牛】
出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
旺文社日本史事典 三訂版
高山樗牛
たかやまちょぎゅう
明治時代の評論家・思想家
本名は斎藤林次郎。山形県の生まれ。東大哲学科在学中,『読売新聞』懸賞小説に『滝口入道』が入選。雑誌『帝国文学』を創刊編集し,さらに雑誌『太陽』の主幹として,美文のロマン主義的評論を発表。初め日本主義を唱え,のちニーチェに傾倒,『美的生活を論ず』で本能満足主義を説き論議をかもし,晩年は日蓮主義に移った。
出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。
「高山樗牛」の用語解説はコトバンクが提供しています。
●高山樗牛の関連情報