@niftyトップ

辞書、事典、用語解説などを検索できる無料サービスです。

高野長英【たかの ちょうえい】

美術人名辞典

高野長英
江戸後期の蘭学者陸奥生。名は、のち長英、号を瑞皐・驚夢山人。杉田伯元・吉田長叔に師事シーボルト鳴滝塾蘭学医学を学ぶ。渡辺崋山小関三英らと尚歯会を組織。『戊戌夢物語』を書き幕政を批判、蛮社の獄で投されたが脱走し、沢三伯の変名で活躍。嘉永3年(1850)歿、47才。

出典:(株)思文閣

デジタル大辞泉

たかの‐ちょうえい〔‐チヤウエイ〕【高野長英】
[1804~1850]江戸末期の蘭学者。陸奥(むつ)水沢の人。名は譲(ゆずる)、のち長英。号、瑞皐(ずいこう)。長崎シーボルト鳴滝塾に学び、江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を組織、開港論を唱えて投獄されたが脱走。沢三伯と称して江戸に潜入、医療・訳述に専念したが、幕吏に襲われて自殺夢物語」ほか、蘭書の翻訳も多い。

出典:小学館
監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:田中牧郎、曽根脩
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus

高野長英 たかの-ちょうえい
1804-1850 江戸時代後期の蘭学者,医師。
文化元年5月5日生まれ。シーボルトに蘭学をまなび,江戸で開業,渡辺崋山らと尚歯会にくわわる。天保(てんぽう)9年「夢物語」をあらわし幕政を批判,翌年蛮社の獄で投獄されるが,15年に脱獄。嘉永(かえい)3年10月30日江戸で捕吏におそわれ自殺した。47歳。陸奥(むつ)胆沢郡(岩手県)出身。本姓は後藤。名は譲。号は驚夢山人。著作に「医原枢要」など。
【格言など】凡(およ)そ生民の災いは年の凶荒より大なるはなし(「救荒二物考」)

出典:講談社
(C)Kodansha 2015.
書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版

たかのちょうえい【高野長英】
1804‐50(文化1‐嘉永3)
幕末の蘭学者。名は譲,のち長英,号は瑞皐(ずいこう)。陸奥水沢の生れ。幼いころ父と死別し,母方の叔父高野玄斎の養子となる。1820年(文政3)江戸に出て蘭医吉田長淑に学び,25年にシーボルトをしたって長崎に留学シーボルト事件が起こるといち早く姿をくらまし,30年(天保1)江戸に戻って麴町貝坂で開業,かたわら生理学の研究に従事し,32年に《西説医原枢要》6巻を著した。この年渡辺崋山を知り,蘭書を翻訳して崋山の西洋事情研究を助けた。

出典:株式会社平凡社
Copyright (c) Heibonsha Limited, Publishers, Tokyo. All rights reserved.

大辞林 第三版

たかのちょうえい【高野長英】
1804~1850 江戸後期の蘭学者・蘭医。名は譲、のち長英。号は驚夢山人・幼夢山人など。陸奥むつ国水沢の人。吉田長叔に西洋医学を学び、長崎に行きシーボルトの鳴滝塾に入り、のち江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を組織。「夢物語」で幕政を批判し投獄されたが脱走。沢三伯と変名し兵書などの翻訳に携わった。のち隠れ家を襲われて自殺。 → 蛮社の獄

出典:三省堂
(C) Sanseido Co.,Ltd. 編者:松村明 編 発行者:株式会社 三省堂 ※ 書籍版『大辞林第三版』の図表・付録は収録させておりません。 ※ それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

高野長英
たかのちょうえい
[生]文化1(1804).5.5. 陸奥,水沢
[没]嘉永3(1850).10.30. 江戸
江戸時代末期の蘭方医,兵学者。水沢藩士後藤実慶の子。外叔父高野玄斎の養子となり,江戸で蘭方医術を学んだ。次いで文政8 (1825) 年長崎におもむき,P.シーボルトに師事。天保年間 (30~44) ,渡辺崋山らと尚歯会を結成して海外事情の研究を広め,モリソン号事件に際しては『夢物語』を書いて鎖国の不可を主張,蛮社の獄に連座し,終生入牢を申渡された。弘化1 (44) 年脱牢,宇和島,薩摩など開明的諸藩の庇護を受けて蘭学を講述しながら,『兵制全書』など翻訳書を刊行。江戸に帰来,隠れ住んだが幕吏に探知され自殺。

出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
Copyright (c) 2014 Britannica Japan Co., Ltd. All rights reserved.
それぞれの記述は執筆時点でのもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

日本大百科全書(ニッポニカ)

高野長英
たかのちょうえい
(1804―1850)
江戸後期の蘭学(らんがく)者、思想家。名は譲、号は瑞皐(ずいこう)、通称卿斎(けいさい)。文化(ぶんか)元年奥州水沢(岩手県奥州(おうしゅう)市)に生まれる。仙台侯の一門伊達将監(だてしょうげん)の家臣後藤介実慶(そうすけさねのぶ)(?―1812)の三男。9歳のとき父実慶が死亡し、母美代の兄で侍医の高野玄斎(1771/1775―1827)の養嗣子(ようしし)となる。玄斎は杉田玄白の門人。17歳で兄堪斎(たんさい)(?―1823)に同行して江戸に遊学、杉田伯元(はくげん)(玄白の養子)の門に入る。やがて杉田塾を辞し、吉田長叔(よしだちょうしゅく)(1779―1824)の内弟子となり、オランダ医学を修めた。19歳の1822年(文政5)通称を長英と改め、日光、筑波(つくば)山地方において採薬に従事するとともに蘭文法の研究を始める。1825年長崎に赴き、シーボルトの鳴滝(なるたき)塾に入る。23歳で蘭語論文をシーボルトに提出し、ドクトルの称号を受けた。平戸(ひらど)藩主松浦(まつら)侯の援助で『シケイキュツデ』(化学書)20巻の翻訳に着手し、またシーボルトの依頼により和文蘭訳の業にも従った。養父の訃報(ふほう)に接するも病気を理由に帰郷を拒む。
 1828年シーボルト事件が起こるや長崎から逃亡。以後広島、尾道(おのみち)、大坂を経て京都で開業した。同地より親戚(しんせき)にあて、高野家相続権を放棄し、また他家に禄仕(ろくし)しないことを誓う。これは西洋生理学研究を続けたいがためであった。1830年(天保1)江戸に戻り、麹町(こうじまち)貝坂で開業、かたわら生理学研究を進める。1832年『西説医原枢要』内編5巻を脱稿。渡辺崋山(わたなべかざん)の住む半蔵門外田原藩邸に近かった関係で崋山の依頼による蘭書の訳述を行い、崋山や江川英龍(えがわひでたつ)らと尚歯(しょうし)会に参加して交際を深めた。1837年上州、常総地方に出張し、洋学を講じ診療を行う。1838年『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を草し、幕府の異国船撃攘(げきじょう)策を批判する。この冬、妻ゆき(経歴未詳)と結婚。翌1839年尚歯会グループに加えられた弾圧事件、蛮社(ばんしゃ)の獄で崋山が『慎機(しんき)論』および『西洋事情書』(1839)による幕政批判の罪で召喚されるや、いったん姿を隠すも、北町奉行(ぶぎょう)所に自首する。獄中『わすれがたみ』(1839)を著し無実を訴えるが、『戊戌夢物語』による幕政批判の罪で永牢(えいろう)の判決を受ける。1841年牢名主(ろうなぬし)となり、『蛮社遭厄(そうやく)小記』を草し郷党に送る。翌1842年赦免出獄を画策するも効なく、1844年(弘化1)40歳にて非人栄蔵に放火させ、小伝馬(こでんま)町の牢舎から脱獄、鈴木春山の庇護(ひご)の下に江戸市中に潜伏。その間、春山の兵学書翻訳を助ける。この年、長男の融(とおる)が生まれた。1847年『知彼一助』を宇和島藩主伊達宗城(むねなり)に献上、『三兵答古知幾(タクチーキ)』を訳了。1848年(嘉永1)伊達宗城に招かれ宇和島(愛媛県宇和島市)に行く。伊藤瑞渓(いとうずいけい)の名で蘭書を教授し、『(ほうか)必読』などの兵書を翻訳する。同年宇和島を去り、広島を経由し、のち江戸に再潜入。高橋柳助、沢三伯の名で医業を営むも、嘉永(かえい)3年10月捕吏に襲われ自刃。47歳。
 彼の思想は、シーボルト門下の第一人者として、蘭語学、蘭医学を通し西洋近代学術の方法と知識を身につけていた点にある。そのため伝統的封建教学である朱子学に対決し、林述斎(じゅつさい)の次男鳥居耀蔵(とりいようぞう)ら守旧派による弾圧を招いた。しかし、やがて長英らの洋学は文明開化期の知的革命に受け継がれ、近代化に大きく作用した。この点は藤田茂吉(ふじたもきち)(1852―1892)『文明東漸史』(1884)の指摘にも明らかであり、高く評価されなければならない。[藤原 暹]
『佐藤昌介校注『高野長英』(『日本思想大系55』所収・1971・岩波書店) ▽『高野長英全集』全6巻(1978~1982・第一書房) ▽佐藤昌介著『高野長英』(岩波新書)』

出典:小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの解説は執筆時点のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

367日誕生日大事典

高野長英 (たかのちょうえい)
生年月日:1804年5月5日
江戸時代末期の蘭学者
1850年

出典:日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

精選版 日本国語大辞典

たかの‐ちょうえい【高野長英】
江戸末期の蘭学者。陸奥国(岩手県)水沢の人。本名譲、後に長英。字(あざな)は悦三郎、号は瑞皐、幼夢山人など。シーボルトの鳴滝塾に学び、江戸で開業。渡辺崋山らと尚歯会を作り「夢物語」を書き幕府の鎖国策を批判。蛮社の獄で捕われたが、放火して脱獄。沢三伯と変名し江戸で医療と訳述に従事、捕吏に襲われて自殺。文化元~嘉永三年(一八〇四‐五〇

出典:精選版 日本国語大辞典
(C)Shogakukan Inc.
それぞれの用語は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典

高野長英
たかのちょうえい
歌舞伎・浄瑠璃の外題。
初演
明治31.6(東京・宮戸座)

出典:日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

高野長英
(通称)
たかのちょうえい
歌舞伎・浄瑠璃の外題。
元の外題
夢物語芦生容画 など
初演
明治19.5(東京・新富座)

出典:日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」
(C) Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

旺文社日本史事典 三訂版

高野長英
たかのちょうえい
1804〜50
江戸後期の蘭学者
陸奥(岩手県)水沢藩の医師の子。江戸で蘭学医の修業をし,長崎では鳴滝塾でシーボルトに学んだ。のち江戸で町医を開業し,渡辺崋山・小関三英らと西洋研究グループの尚歯 (しようし) 会を結成。1838年『戊戌 (ぼじゆつ) 夢物語』を著し,モリソン号事件での幕府の撃退を批判,翌年蛮社の獄で終身刑となった。'44年獄舎の火災で脱獄。沢三伯と変名,薬品などで容貌をかえ潜行し,兵学の訳業などに活動したが,江戸にもどったところを発見され,幕吏に囲まれて自殺した。

出典:旺文社日本史事典 三訂版
執筆者一覧(50音順)
金澤利明 竹内秀一 藤野雅己 牧内利之 真中幹夫
 
Copyright Obunsha Co.,Ltd. All Rights Reserved.
それぞれの項目は執筆時点での最新のもので、常に最新の内容であることを保証するものではありません。

高野長英」の用語解説はコトバンクが提供しています。

高野長英の関連情報

他サービスで検索

(C)The Asahi Shimbun Company /VOYAGE MARKETING, Inc. All rights reserved.
No reproduction or republication without written permission.

アット・ニフティトップページへ アット・ニフティ会員に登録

ウェブサイトの利用について | 個人情報保護ポリシー
©NIFTY Corporation